Column
コラム
【連載】新島出身、流れ者として生きる①
2022/03/10
Contents
新島出身、flow lifeスタッフ
小澤里江(41歳)の場合
まずは、私のフローなバックグラウンドをご紹介します!
私は新島生まれですが、父が伊豆諸島の金融機関に勤めていたため、いわゆる転勤族として子供の頃から東京諸島北部の島を2年〜3年のスパンで転々としていました。父は会社員だったので、住む家は社宅として用意してもらえていましたが、各島の社宅は個性的で面白い毎日。
大人になってからは、音楽、伝統芸能の道に進み日本各地を転々としてきました。まさに根無し草だった私が新島に戻ることになったところまで、よければお付き合いくださいませ!
新島〜神津島
家族5人で4畳半と6畳のミニマムで賑やかな家!
まずは第一弾。新島から神津島へ転校して一番驚いたのは、新島と違って村内がギュッとしているところ。社宅として借りていた物件は2部屋にシンクがついたコンパクトなお家で、近所に同い年の子供が多く、すぐに友達ができました。
それは良かったのですが、家はいつもぎゅうぎゅうに。それでも何故かみんな遊びに来ていたのは、たぶんアットホームだったからではないかと思います。コンパクトだから距離感が近くて、友達も家族も同じ部屋で遊ぶ。そんな環境が子供は無意識に安心するのかもしれません◎また、駐車場は近所でシェアのような作りになっていて、近所に広場がたくさんありました。約束をしなくても子供が自然と集まってくるような環境でした。
神津島〜式根島
支店の裏は、秘密基地@社宅!
式根島では支店の裏に社宅がありました。式根は神津に比べると子供の数は少なくて少し寂しかったですが、隣の社宅に住む若い社員のお兄さんが友達になりました。独身社員のお兄さんは、自炊が苦手で毎晩のように我が家に夕飯を食べにきていて、母がご飯を作ってる間は私たちと遊んでくれました。ファミコン、少年ジャンプの回し読み、ドラクエの攻略。漫画とゲームという、親にとっては最悪の遊び方を教えてくれる最高の友達でした。
私は3姉妹だったので、式根島では子供が増えること自体が喜んでもらえて、近所の人はみんな親戚のおじさんおばさんのように世話を焼いてくれていた気がします。島自体が大きな家族のようでした。
式根島〜大島
噴火の影響がこんなところにも!
大島での社宅はとても大きかったのですが、噴火の影響を受けてか家が少しだけ傾いていました。玄関の扉を開けると自動で閉まったりもして、初めの頃は家にいるのか、まだ大型船に揺られているのかわからない感覚がありました。とはいえ人間の適応性というのは逞しいもので、1ヶ月が過ぎたころには何も感じなくなり、それよりも、庭に野生のリスが現れたりすることを発見して、大島らしさを感じることができました。
この頃、私も中学生になり転校自体には抵抗がありましたが、リスに加えて、本屋さん、レンタルビデオ屋さん、CDショップがあるという大島の充実した環境で折り合いをつけることにしました。家の環境も大事ですが、ティーンエイジャーには周りの環境も大事なのです。
大島〜新島
やっとマイホームに戻ってきた!
高校生になり、地元の新島高校へ進学することに!しばらく離れていた新島でしたが、幼なじみ達はすぐに受け入れてくれて、高校生活の3年間はとても穏やかで楽しい日々になりました。
ただ、私にしかわからないであろう感覚もありました。島では生まれた時から、長ければ高校まで幼なじみとはずっと一緒。でも小学校、中学校を別の島で過ごした私には、新島の友達とは共通の思い出が無いのです。みんなの思い出話が始まると、自分だけ会話についていけず少し寂しい気持ちになりました。
でも今となってはこの経験が、地元の人間でありながら移住者の方に共感できるポイントになっているなと思っています。
新島〜京都
日本文化の中心で多国籍、異文化のアパートへ!
高校を卒業後、経緯をだいぶ端折りますが、色々あって京都の大学へ進学。希望したわけでもなく人文学という分野に進んでしまいます。さらにゼミでは、間違って暗黒舞踏のクラスに入ってしまい、後半2年間は白塗りで踊る羽目に。
芸術性の高い大学だったので、いわゆる「変わった人」が多く、新しくできた友達も個性的でした。タイ人、インド人、ベトナム人が多く住むアパートに入ることになり、部屋の中はいつでもスパイスの香りがしました。
日本文化の中心地・京都で異国感あふれるアパートに住み、全く理解できない暗黒舞踏を学びながら日本のお祭りをはしごして、休日は嵐山で甘栗を売るバイトをして過ごしました。「自由と混沌」を知って、大人への階段を上がりました。
京都〜兵庫
内弟子としての移住スタイル!
大学で芸術や人に触れ感性が高まったこともあり、卒業する頃には舞台人として伝統音楽の世界に生きようと決めていました。プロ奏者になるには、いくつか方法がありましたが、私は内弟子入りする道を選びました。
内弟子なので師匠の実家にお世話になるのですが、これが兵庫県の山の奥深く。宍粟市千種町。ご存じですか?師匠の実家は家業として製麺工場を営んでいて、家族で揖保乃糸を製麺していました。内弟子は家族の一員として家業を手伝う代わりに部屋と食事を与えてもらえます。
芸能の修行に来たのに、朝から晩まで素麺を作る日々で何度逃げ出そうと思ったかわかりませんが、ここでの経験が私の土台を作ってくれています。知らない土地で生きていくための関係性の作り方、距離の取り方、筋の通し方、社会の立ち回り。
結局3年間お世話になり、製麺技術も上がりすぎて最後はほぼ一人で手延べ素麺ができるようになりました。あれ?なんの修行に来たんだったかな?
兵庫〜秋田
田舎での間借り生活を体験!
内弟子として芸事の基礎を3年間みっちり教わり、その頃には自分の表現を模索するようになりました。ふと東北の芸能に何かヒントがあるのではないかと思い、芸能の宝庫である秋田県は仙北市へ。
稽古の交渉は成立したものの、今度は内弟子ということではなく、家を探さなければなりません。しかし田舎すぎて家がありません。色々回って、とある老夫婦のお宅に居候させてもらうことになりました。
とても良くしていただいたのですが、寝るのが早いご夫婦で、夜型の私が物音を立てたり、トイレに行くと起きてしまうので、とても気を使いました。
家族同等に接してくれても、自分はよそ者という意識は常に持った方がいい。お金はいらないと言われても払った方がいいし、田舎を舐めたらいけない。自分の立ち位置をはっきりさせるのは舞台でも同じだ。神経を研ぎ澄ませる練習をしないとダメだ。と師匠に言われたのが心に残っています。
秋田〜埼玉〜浅草
ここにずっと住みたい!と思った浅草。
そんなこんなで、大学卒業から修行期間を終えて、27歳でプレイヤーとして独立することができました。拠点を関東に移して、専門学校に通っていた妹が借りていた埼玉の部屋に転がり込みました。
都会では、楽器や小道具を持って移動するのがとても大変です。車で移動することも多かったですが、楽器を担いで電車移動もしばしば。仕事が増えるほどに荷物も増えてきて、途方に暮れたある日。「自分が仕事場の近くに拠点を移せば良いんだ」と気づきました。
そこで、さまざまな芸能が集う浅草へ。人伝に紹介してもらい、浅草寺が見渡せる最高の部屋をゲットすることができたのです。私はずっとここに住むだろうな!と思えるくらいお気に入りの部屋でした。
仕事も順調で、全てが良い方向に流れているような気がしました。いろんなところに住んだけど、場所の空気感て大事だなと、そう思った矢先に異変が起こりました。
浅草〜新島
流れはいつでも変わる。だから心穏やかに。
私がお気に入りの拠点を手に入れて、音楽活動も軌道に乗ってきた頃。転勤族として島々を転々としてきた父は、会社の理事長へ上り詰めた後、新島村の村長として新しい人生を踏み出していました。そんな父を突如、難病が襲ったのです。
筋萎縮性側索硬化症。通称ALSといえば、聞いたことのある方もいるかと思います。身体の自由がきかなくなる異変に気づいたにときには、父は合併症として若年性アルツハイマーも発症していました。
介護が必要になった父を、家族全員でお世話することになりました。そして私は、都内での全ての活動を休止して、16年ぶりに新島に戻ることになったのです。
ここから私のUターン生活が始まりました。
続く