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【連載】新島出身、流れ者として生きる②


2022/08/22

前回までのあらすじ

新島生まれ、東京諸島北部育ち、ノリで大学進学した後にプロ太鼓奏者をめざして西へ東へフローしてきたFlowlifeスタッフ・オザワ。演奏活動&インストラクターをしながら最後は浅草へ流れ着き、民謡居酒屋で演奏してチップをもらう日々。そんな順調満帆(どこが)な私が突如、新島にUターンすることになったのは、父が難病が発覚したからでした。あれから4ヶ月、あらゆる言い訳をしながら伸ばしまくった連載の続きをどうぞ! 第1回はこちら

父のこと


私のフローライフにあたり、どうしても避けては通れないので、父のことを少し。

私の父は前編でもお伝えした通り、民間の会社員として働いていて、いわゆる転勤族でした。
お酒を呑めないのに宴会の席が好き。外回り大好き。老若男女問わず、人と話すことが大好きで、人に会いに行くのも好き。もちろん実際はいろんな仕事をしていたと思いますが、「一日中、誰かとお茶してるのが父の仕事。」というのが私のイメージ。

家族では、夕食中はテレビを点けないというのがルールで、食事の時も会話を楽しむのが日課でした。私は反抗期が激しかったので一時期それが嫌で嫌で、凄まじきスピードでご飯を食べて自分の部屋に帰っていたような記憶があります(笑)

仕事として各島々や地域の事業者にずっと寄り添い、人が大好きな父が、60歳を前に「次は新島の村長に挑戦してみようと思う!」と家族に宣言した時は、みんな自然に受け入れて応援をしました。その後、民間からの立候補という形で住民の皆さんにも後押しされ、見事に当選。晴れて新島村の村長となり、転勤族としての人脈も大いに活用されることになります。

各島々をフローしてきた父へ娘たちより感謝を込めて!

違和感


当時、私はまだ埼玉(のちに浅草)に住んでいて、家族が上京した時の拠点になっていたので、父は頻繁に出張にやって来ていて「大変だな」というのは感じていました。

そんな中で、ふと父と会うたびに違和感を感じるようになったのです。人と話すことが趣味の父は、そこが島だろうが埼玉だろうが関係なく、初めて入る飲食店や居酒屋でも昔から常連でしたっけ?というくらい店長やお客さんと仲良くなっていたりするのですが、ある時から、どこの常連店に行っても会話が続かなくなり、ついには会話ができなくなりました。

並行して食事の時に、食べ物を箸からよく落とすようになりました。仕事で疲れて会話する元気も気力もない。いわゆる鬱状態だったらまだ自然だったのですが、元気はあるし、お店にも顔を出す。ニコニコもしている。でも会話ができない、という違和感があったのです。

ピースをする手も自分で支えないと持ち上げられなくなってた

検査入院

さらに一番おかしいな?と感じたのは、違和感に父自身が気づいていないこと。村役場の職員さんからも「最近、様子がおかしく心配だ。」という声を聞きました。なんらかの病気で、おそらく現場にも多大な影響が出てるだろうと思い、家族と相談して検査入院を進めたのですが、なんせ自分では気がついていないので言うことを聞きません。

今更ではありますが、村役場で統率をしなければいけない立場の父が、しばらくこんなことになっていて、当時の職場の皆さんには大変なご迷惑をお掛けしたと思います。そういう背景もありつつで、なんとか強制的に都内の病院へ検査入院の手続きをとり、家族会議をして一番時間を自由に使える母と私で付き添い、様子を見ることになりました。

結果を言うと、検査の結果、父は若年性アルツハイマーと筋萎縮性側索硬化症(通称ALS)の合併症を発症していることがわかりました。ALSというのは全身の筋肉がどんどん動かなくなり、いずれは呼吸ができなくなってしまう、20万人に1人が発症するという難病です。漫画『宇宙兄弟』などで、ご存じの方もいるかと思います。

余命は短くて6ヶ月、長くて3年。これが検査後に突きつけられたリアルでした。ショックと同時に、「ここは自分が頑張らないと!」という謎の使命感が湧いてきて、心は非常に冷静だったのを覚えています。これは今後もコラムに多々出てくると思いますが、ピンチにこそ力を発揮していくのは、私の生まれ持っての強みなのです。

病院を脱走しようとする父と、追いかける母

介護Uターン

今後どんどん身体の自由が効かなくなることを踏まえて、自宅での介護をすることで覚悟を決め、私も本格的に新島へ戻ることになりました。当時の私の仕事は替えが効かない仕事でしたし、普段からリハ(練習)ができないと仲間に迷惑をかけてしまうため、いったん全ての仕事を休止にしました。でもこの時はまだ、活動再開を視野に入れていたので、東京と新島の2拠点生活でした。

ところで、ALSという病気は「脳(意識)は正常なまま、身体が動くなる」というのが最大の苦行になる病気なのですが、父は認知が合併したため、そもそも自分がALSにかかっていることがわからないというのが不幸中の幸い。家族の心配とは裏腹に、本人は毎日ニコニコと能天気なものです。

村長を辞任しても使命感が残るのか、自宅療養中は毎日、車で本村から若郷までの新島一周パトロールを午前と午後の2回するのが日課でしたが、すぐに筋力が落ちて運転できなくなり、代わりに母が運転手。結果的に毎日夫婦水入らずでドライブの日々ですが、住民の皆さんにはどう映っていたんでしょうか。

「元気にドライブしてるじゃない。」と思われてた方もいたんだろうなー(笑)。そういう噂も狭い地域ならではと思い、私はなるべく介護記録をSNSでアップするようにしていました。もちろん父の名誉を守るためです。

ちなみに、介護生活においては、太鼓(素麺?)で鍛えた私の筋力や腰の強さも大いに役立ちました!本当に人生に無駄なことはないですね!

最後のお勤めの朝。帰りには大きな花束を持ってきました。

一幕降りて


長くなると覚悟した介護生活でしたが、若くしての発症だったため症状の進行が速く、病気が発覚してから約1年で父は人生の幕を下ろして、(この後、島のお葬式という大イベントが発生するのですが、それはそれは凄まじい経験でしたので別の機会に書こうと思います!)ネクストステージへ旅立ちました。

「人と話をするときには、小さな声から優先的に、できればその声の向こう側の本当の声を聞くことが大事なんだよ。」

とよく話していた父は、本当はこれからもっと沢山の人、地域、島の声を聞こうとしていたんだろうなと思います。それができなかったことは無念ですが、少なくとも私は、父の声を聞いていた一人なので、私のスタイルで意思を次いでいけたらいいなと思っています!

演奏クオリティが異常に高い趣味のハーモニカと、トレードマークのネクタイ
凄まじき島の葬儀week。いずれ特集します。

フローライフ


父の件で気持ちに大きな変化が現れた私自身も、ここからネクスト(サード?)ステージに入っていくことになります。もちろん休止していた音楽活動を再開するという道もあったのですが、しばらく新島に残っているうちに家族と暮らす時間を大切にしたい気持ちが強くなり、直感的にこの気持ちには逆らわない方がいいなと。

それで、大好きだった浅草から新島へ引っ越しをして、2拠点生活から新島拠点の生活になった訳なのですが、ここで新たな問題が発覚!

そうなんです。新島に引っ越した私は、なんと無職になったのです!

太鼓奏者として生きていくには、新島では需要が無さすぎました。無念です。私の素麺修行の日々をどうしてくれるのかという。。。。

帰ってすぐにワタクシの本業が唯一役に立った島の郷土芸能。父への門出を込めて華やかに
え。。島暮らし、これからどうするつもりなの?


次回へつづく

第1回はこちら

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